10

ブラック会社に救世主が登場

| コメント(0)

魂を抜かれ抜け殻のようになっていた僕は空想の世界にどっぷり浸っていた。深く深くまで潜っていた僕を遠くで誰かが呼んでいるような気がしたが、自分が自分でないような不思議な感覚がして、他人事のように聞き流していた。しばらくして再び訪れた沈黙は、僕にはとても居心地良かったのが、残念なことに、僕を呼ぶ声がまた聞こえた。依然その声を無視し続けていた僕は、自分の体が激しく揺さぶられているのに気づいて目を覚ました。

「なかたにくん、これどうしたん?」

 目の前には橋口さんがいた。一瞬目の前にいる人が山本さんかと思ったので、それが橋口さんであることにとてもホッとした。橋口さんはぐしゃぐしゃになった会議室を指さしながら、オフィスをきょろきょろと見回していた。橋口さんは僕の隣りに座っている1年先輩の男性で、僕にモデリングを教えてくれる直属の上司である。

「どうしたん、なかたにくん、何があったん。」

 返事のない僕に橋口さんがもう一度尋ねた。僕は何から話せばいいのか分からないまま、苦笑いをしていた。言葉が出なかった。橋口さんは首を傾げながら、席につき、マックの電源を入れた。

「お前ら、何そこで、こそこそオレの悪口言っているねん!!」

 僕ははっと自分が一瞬おかしくなっていたことに気づいた。自分が自分でないような不思議な感覚はもうなくなっていたが、自分のもろさを痛感した。

 ふと、横に座っている橋口さんを見て、一人ぼっちではないという事実を再確認した。今思えば、すべての認識が時間差でおこなわれていた。そして、時間がたつにつれ、固まっていた感情がとけだし表に出てきた。やった、一人ぼっちから解放された。もう一人じゃない、もう一人じゃない、嬉しさのあまり、僕は心の中で繰り返していた。社長は出社してきていたが、社長室に入ってしまう社長と、隣りの席の橋口さんとでは安心感が全然違った。
 よし、とりあえず今は、橋口さんに仕事も与えてもらって専念しよう、僕はそう思った。昨日の仕事で分からない部分もたくさん出てきていた。僕は山本さんのことはお昼にゆっくり橋口さんに話すことにして、気持ちを入れ替えて仕事をすることにした。橋口さんが来てくれたおかげで最悪だったこの退屈からは脱出することができる。

 僕は入社して1週間だが、すでに仕事に参加していた。ジークレフ六甲という安藤忠雄設計の建物のモデリングだ。もちろん、いきなり出来るわけないので、先輩の橋口さんに聞きながらやっていた。まだ、2日目なので分からないことだらけだ。一番厄介なのが、図面の見方だ。厚さ数センチにもなる図面の束から目的の図面を探し出すことだけでもう憂鬱になってしまう。そんな僕に、橋口さんは親切に図面を探して説明してくれるが、図面の見方や建築専門用語はそんなに簡単に覚えられるものではない。空間をイメージ出来なければモデリングなど出来るわけがないので、僕はひたすら図面の見方を勉強していた。

 僕は昨日の帰りにどうしても分からなかった図面を僕の引き出しから出した。2階の廊下がどんな形になっているのかどうしても分からなかったのだ。
 橋口さん、ちょっとすいません、僕はそう言って、橋口さんの机の上に図面を広げた。さっきまで反応のなかった僕が急に張り切って仕事に取り組む姿に、橋口さんは少しビックリしたようだった。橋口さんはしばらくの間、僕を観察していたようだったが、特に問題のないことが分かると図を書きながら説明し始めた。

「ここの天井はな、こういう形になってんねん」
 橋口さんの説明はとても分かりやすい。さらに、サラサラっと書かれる図はより一層理解を深めれてくれる。僕は橋口さんの説明を聞きながら、橋口さんが書いている図が出来上がっていく様子をずっと見ていた。僕のイメージしていた2階の廊下が橋口さんのペンによって立体的にだんだん再現されていく。だが、もうあと少しで完成かと思った時、橋口さんの手がピタッと止まってしまった。何かが聞こえたような気がした。僕は悪い予感がした途端、硬直してしまった。そして、悲しいことに聞きたくもない声をまた聞いてしまった。小さく聞こえた声は、もう一度大きくなって社内に響いた。

「お前ら、何そこで、こそこそオレの悪口言っているねん!!」

コメントする

PR

このブログ記事について

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。